長野県実業団テニス連盟

【主管大会】
『全国実業団対抗テニス大会』(B大会)
昭和37年から行われている歴史のある大会である。平成15年現在、男女とも2ダブルス1シングルスで行う団体戦である。通称ビジネスパルテニス大会としてテニスの普及を目的に行われ、年1回の全国大会は、男子32・女子24チームで行われる。
これに合わせ長野県実業団テニス連盟では、全県予選として1次予選と2次予選を行って男女とも県代表2チームを決定している。
北信越予選は北信越各県持ち回りで開催しており平成17年度が長野県の開催年になる。北信越代表として男女とも2チームを決定している。

『全国実業団対抗テニストーナメント』(A大会)
昭和61年から行われたテニス・日本リーグに合わせ発足した大会で、平成15年現在男女とも1ダブルス2シングルスで行う団体戦で、選手強化を目的に行われ、全国大会は日本リーグとの入れ替え戦を目的に男女とも16チームで行われる。
これに合わせ長野県実業団テニス連盟では、実業団リーグを発足させた。平成15年男子は、最上位リーグである、テニス・長野リーグ(8チーム)の優勝チームが県代表としてテニス・北信越リーグに駒を進めた。以下実業団1部リーグ(16チーム)・2部リーグ(24チーム)・3部リーグ(10チーム)となっている。平成15年女子は、テニス・長野リーグ(9チーム)・1部リーグ(1チーム)に参加しているチームから、日本リーグを目指すチームによる長野県予選が行われ優勝チームが北信越予選に駒を進めた。
北信越予選は北信越各県の持ち回りで開催しており平成14年が長野県の開催年であった。平成8年からテニス・北信越リーグとして各県代表5チームによるリーグ戦で北信越代表男女とも1チームを決定している。なお、女子はここ数年補充枠代表が与えられている。

『全国社会人テニス選手権大会』
昭和62年から行われた大会で、長野県は北信越予選を兼ねて第6回大会から行ってきた。第15回大会までは長野県チームだけで行ってきたが第16回大会からはようやく富山県代表からの参加があった。男子大会が主で、3ダブルス2シングルスの団体戦で、通称ゴールドリーグと呼ばれている。平成15年北信越予選は予備リーグ(予選リーグ)と北信越リーグ(4チームの本戦リーグ)で代表2チームが決定された。

『実業団クラス別個人戦』
 平成3年から連盟発足を記念して、上級・中級・初級にわけて男女単複を開始した。出来るだけ多くの試合を行う大会にをモットーに続けていますが第5回大会をピークに参加者が減り平成13年・14年は20名前後ですが全員1日フル出場で行っている。

【大会運営】
『連盟発足までの大会運営』
 全国実業団対抗テニス大会(B大会)の北信越予選は、昭和51年からおこなわれた、この時期より長い間県予選は前年優勝チームがおこなっていた・・須坂→伊那→塩尻→諏訪・・、特定の参加チームしか広がらない状態から参加チームを増やすため組織化が計られた。この結果実業団リーグが開始される3年前から組織がつくられ始め、正式発足は、第1回長野県実業団リーグにあわせ平成3年である。

『連盟発足』
連盟は、従来のB大会予選のみを行ってきたのに加えA大会が開始され北信越への参加というあたりから発足の要望が生まれ正式発足の2年前から組織化がされた。会長に新村均氏、理事長に木曽茂氏が就任し、競技委員長として澤田繁氏で実業団リーグの発足と発展をメインに動きだしました。競技委員長が飯塚芳良氏、木下悟志氏、水垣浩一氏、戸田英利氏と引き継がれ順調に実業団リーグは発展している。

『長野県テニス協会・北信越テニス協会・日本テニス協会』
 長野県実業団テニス連盟発足後まもなく北信越テニス協会に実業団委員会が発足、委員長に新村均氏が就任し、A大会のテニス・北信越リーグ化(平成8年より実施)、B大会の拡大として参加チームを12チームに(平成9年より実施)などのほか、北日本物産(富山)の日本リーグでの活躍に貢献され、日本テニス協会の実業団委員会の委員としても現在活躍されている。
 長野県テニス協会には、連盟発足後まもなく特別加盟団体として加盟いている。

『事務局移管と現在の加盟チーム数』
 競技の会誌の発行は連盟発足(平成3年)から毎年行われていた。編集はSYCが担当し、記録のデータ保管もSYCが現在まで行っている。競技の会誌は当初競技部が発行する形で行っていたが、現在理事総会資料と合わせた"長野県実業団テニス連盟の会誌"として連盟が発行している。事務局は平成11年から現事務局の〒390-1301長野県東筑摩郡山形村7598-68澤田繁気付に移行した。現体制は会長に新村均氏、理事長澤田繁氏、副理事長木下悟志氏、監事飯塚芳良氏、会計上水裕美子氏、総務委員長渡辺晴雄氏、競技委員長戸田英利氏である。
 現在の加盟チーム数は、実業団リーグ56チーム、実業団個人リーグ12チームであり、大会参加者は1640名(連盟発足から現在まで)にのぼる。

『日本リーグやまびこ会場の運営』
日本リーグは、平成7年の第10回大会から平成15年の第18回大会までのやまびこドーム改修工事(平成12年)の1年を除く8回を行ってきた。平成11年1月の大雪までは1次リーグと2次リーグを行ってきましたがさすがにあの大雪以来1次リーグのみの開催となりました。1次リーグは男子の場合公式練習木曜日、開始式木曜夕方、試合は金、土、日の各チーム3対戦を2面進行で行います、最初にシングルス(10:30〜11:00スタート)が入り空いたコートにダブルスが入ります。3セットマッチなので力の差があれば1時間くらい接戦すれば3時間半くらいまでかかります。試合終了後クールダウンや練習を行いますのでスタッフは平均して朝8時30分から夕方17時半くらいいます。
日本リーグは、松本・諏訪地域の団体チームの運営協力で成り立っています。会場づくりは安曇野テニスリーグのチーム(女子連中信支部にも暗幕時代に協力してもらいました)によってまず行います。次に松本市役所の中島英文氏・杉山幹夫氏とSYCのメンバーによって更に細かい会場が設営されます。会場係はキッセイ薬品工業(宮沢和弘氏)、富士電機松本(伊藤直樹氏)、八十二銀行(丸山俊哉氏)が手配をします。開始式の挨拶は松本テニス協会会長が行います、故柳沢秀洋氏、現会長可知偉行氏が挨拶されています。クリニック・ボールパーソンの関係は高校生は長野県教職員組合の池上美鈴氏、柵山寛之氏がジュニアはすがの台テニスクラブの小林正明氏がまとめてくれてます。日本リーグで重要なSCUですがある程度の訓練が必要なため、講習と手配をCOレフリーの塚原道也氏がセイコーエプソン(諏訪・諏訪南・富士見・豊科・広丘・松塩・光学・松本南・青柳)のチームをあたり審判団を形成してくれます、一般SCUも募集しておりSYCの長岡とし枝氏が窓口となっています。レフリーですがシードエムツーオーの村山和男氏が担当しております。最後に選手、役員などの面倒をみてくれる運営スタッフとして主にSYCメンバーがあたります。18回大会は小川知恵美氏をチーフに津田君枝氏(セイコーエプソン)、戸田ひとみ氏、上水裕美子氏、長岡とし枝氏が行いました。

『全国実業団対抗テニス大会(ビジネスパルテニス大会)の全国大会運営』
 平成5年、諏訪湖の森で全国大会を行うことになりました。当事はこの大会を普及するため全国各地で行う一貫として諏訪湖の森が選ばれましたが、長野県実業団テニス連盟としては初めてのことで大会が終わるまで生きた心地はしませんでした。このとき主体となったチームは長野県庁チーム、木曽茂氏を始め山崎成史氏・栗林一彦氏・川上学氏らで、新村チームは奥原一成氏・増沢義人氏、競技関係はセイコーエプソン広丘の女性チーム8名で大会前から準備としてジョイテニス松本の会議室でスコアボードの作成に精を出しました、レフリーは澤田繁氏とし、アシスタントとして市川悦子氏・上水裕美子氏があたり総力で無事大会を終了しました。
普及のため全国大会が大幅に改良され、男女とも2ダブルス1シングルス(選手単複重複不可)にチーム数も男女16から男子32女子24チームになり、総勢500名(諏訪湖の森のときは160名)の規模になり、宿泊も限られ軽井沢プリンスホテルで行うことになり、開催前年度の大会である第35回(平成8年)大会を視察するため、レフリー澤田繁氏は広島県に行きましたが来年の開催規模を考えると余り参考にならずに帰ってきました。
平成9年、第36回大会が軽井沢プリンスホテルで開催することになりました。この大会での要素はあくまでテニス大会ですので選手に満足いける試合ということで、軽井沢のコート事情というとこの規模の大会では余りよくありません、質を求めれば分散になりますし、まとまった面数だと、コートの質特にコート間に難をきたします、次にローピングアンパイアと大会運営ということになります。他の要素は選手役員の宿泊・全員一同に会する夕食会・開会式などになります。とりあえず、チーム数を考えた大会運営、人数を考えた夕食会および開会式を重点に計画準備し、あとは大会当日対応でスタートしました。
平成11年(第38回)、平成12年(第39回)、平成14年(第41回)、平成15年(第42回)大会と運営を重ねております。この間いろいろ改良され第42回大会は、軽井沢町営風越公園コート(砂入り人工芝14面)と日本信販軽井沢コート(砂入り人口芝12面)の2会場で、第1日目に4チーム毎のブロックに分けたリーグ戦の1・2回戦、第2日目に3回戦と各ブロックの同一順位によるトーナメント1・2回戦、最終日に決勝戦を行うという日程で全試合打ち切りなしの8ゲームノーアドバンテージをおこなった。開会式は全大会とも軽井沢プリンスホテルのコート内で行いプラカード前集合の全員参加でおこない初日の試合会場に移動をする。夕食会は第1日目の夕方行われ、時間の関係で毎回内容がかわりチーム数のすくなかった時恒例の全チーム紹介も軽井沢大会最初は地域代表として選抜しおこなってきたが、今回は希望チームの余興に変わった、毎大会行っているのが新村均氏が県の特産品メーカー頼んで協賛してもらいビンゴゲームなどで選手に提供している。このような大会が余り問題なく4回もできるのは審判団として佐久地域のテニス愛好者の協力体制が確立したことと長野県実業団リーグでの運営経験につきる。審判団として38回当初はツガミの市川健衛氏に佐久地域の実業団チームで人数振り当て動員を頼んだことから始まった、双信電機、長野沖電気、樫山工業、TDK、シメオ精密、ルネサス東日本セミコンダクタ、高見沢サイバネティックス、松下電送、シチズン精機、ミヨタの各チームにとっても余りない経験で苦労していました、その後佐久テニス協会の小田川昇氏が窓口となり、市川氏とともに広く協会のなかから人材を養成してくれています、軽井沢町での開催ということで、軽井沢町役場チームには高橋秋生氏、土屋真一氏、上原勉孝氏、内藤良子氏を始め多くの方に御協力をお願いしました。最後に運営スタッフとして、全大会を通じての上水裕美子氏、村山和男氏、多くの大会を通じて津田君枝氏・長岡とし枝氏他多くの運営スタッフに御協力を感謝いたします。

【連盟事業】
『高校生から社会人にテニスを』
長野県の高校でテニスをやっていた選手が、社会人になったとき実業団チームで一緒にプレーをしてほしいことを事業の柱として、いろいろ模索してきました。なかでも会誌の発行にあわせ毎年高校テニス部に会誌を発送してきました、これは現在も続いております。日本リーグ開催のおりテニスクリニックを参加チームの選手・監督の方にお願いし高校生を中心に実施してきました、現在はボールパーソンを行ってそれからクリニックといった一方通行から一歩抜け出た交流で行っています。余談ですが、最初は参加チームの好意と地元の要望からはじまった日本リーグでのクリニック、チームと選手と高校生にその後の交流も多く生まれました、このクリニックは、やまびこから全国の日本リーグ開催場所で行われるようになりました。
この他いろいろ事業・組織(委員会活動)も試みましたがあまりうまくいっていません。このところサラリマンの余裕もあまりなくなりましたのである意味仕方ないことかもしれません。

『長野県チームへの連盟からの目標』
 発足当時から競技委員会として、あまりにも大きな目標というか希望を抱いて実業団リーグを発足させました。その目標はB大会(ビジネスパルテニス大会)で優勝すること、A大会で日本リーグに入ることでした、その当時はあまりにも高い目標でしたので公言できませんでしたが、B大会の全国大会を諏訪湖の森(平成5年実施)の運営を長野県実業団テニス連盟で行ったときから男子のシメオ精密チームは年々力がつき始め平成7年第4位、平成8年第3位、平成11年第2位、そして平成12年(第39回大会)見事長野県チームとして初優勝を果たしました。優勝チームメンバーは、監督袖山勝己氏、出場選手遠藤武次氏・山浦卓也氏・古川敬二氏・一場一宣氏・長谷川結城氏であらためて敬意を表します。A大会は男子の壁が厚く北信越予選から毎年苦労している、女子においてはキッセイ薬品工業チームが長野県実業団リーグ発足当事より安定したチーム力を維持してときのエースは小松恵理氏からはじまり、斉藤亜希氏、尾又綾香氏、長澤朋美氏と存在したが時代ときにもそろわなく常に部員全員の総合力で戦ってきたが、ついに平成15年の第18回テニス・日本リーグに出場することが出来ました。登録メンバーは、監督兼選手柳伸子氏、選手長澤朋美氏・小澤玲子氏・大久保僚子氏・村山涼子氏・中野知葉氏・上原みゆき氏である。